基塾長の成績の上がるブログ

名張市内で唯一無二の新型「自立教室」を開塾

難しいことは悪か?

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去年のブログからレスキュー…


生徒たちが勉強をしていて「むずかしい!」と叫ぶ。そんなとき私は「むずかしいねえ」という。「むずかしいからやめろ」とも「むずかしくてもやれ」とも言わない。
ところで、難しいということは悪なのか。
これは前にも言ったことがあるかもしれないが大学生のとき、文学作品について「わかりやすい」ことを評価のポイントにあげた学友がいた。私は「え?」と思った。そんなこと考えたこともなかったからだ。
本を読んでいて、これはわかりやすい・これはわかりにくいなどと考えたことはなかったからだ。でも世の中にはそんな評価ポイントがあることを知ってびっくりしたのだった。
「分かりやすい誘導」をされると、ホイホイとついていくのが大和民族の性質かも知れないとさえ最近は思う。
「難しくて自分には分からない」という観点は、否定の論旨から始まるような気がしてならない。たとえばゴッホの自画像を見て、「こんなのどこがいいのかわからない」と言い出す。そりゃまあ分からないかもしれないけれど、それを言い放つ必要性がわからない。「どこがいいのか」と思ったら、良さを探すようにすればいいだけのこと。それが見つからなければ、とりあえず保留しておけばいいのではないか。何も否定することはない。
それに、わかりやすいということは、逆に言えば情報量が少ないということだ。自分の知っていることばかり書かれているものを読んでも、退屈なだけではないだろうか。
逆にこんな話もある。SF作家の一人が「エピステーメー」という雑誌を読んでゲラゲラ笑っていた。「エピステーメー」という雑誌は、知の最前線である哲学者などの最新論文が載っているのだった。そんなものを読んでどこが面白い?と思った友人が「何を書いてあるのかわかるの」と訊いた。
そしたら「え、わからないよ。全然わからない。一言だって意味がわからない。だから面白い」そしてどんどん読んで、ゲラゲラ笑うのだった。
たとえばミロの展覧会に行って、入ったところに大きな彫像が置いてある。ミロの作風は抽象的だから、なんの彫刻かはわからない。でも形の面白さはわかる。やっぱり笑ってしまう。鹿爪らしく眺めるのは違うのではないか。
もちろん難解であるからといって必ずしも面白かったり正しかったりするわけではない。でも、どちらかといえば難しいものの中に面白いものがあるような気がするのだ。